北千住おひとりさま

東京の大きな下町、北千住で過ごす20代男の日常など。

人生のモチベーション、みたいなもの

友人と、久々に「語り合った」ような気がするので、その内容を思い出しながら備忘的に書いてみる。

 

問題提起は私。

就職活動がひとまず終わったので、先週はまるまる実家のある愛知県に帰省していたのです。

帰省中は、小中学校時代の旧友と連日飲んだりしていたのですが、

彼らと飲みながらする話って、

「昔はあんなことあったよねー」「誰誰は今何をやっているらしいよー」

に集約できてしまうことが、なんかつまらないなーと感じたわけです。

 

みなさんはそんなことありませんかね?

私はこの、思い出話の掘り返しと、第三者の近況でまとめられてしまう。

つまりは「“当事者である”お互いが、どんな気持ちで“いま”を生きているのか」って話ができないなー、と。

 

私のコミュニケーション力の不足なのか、はたまた昔が本当に輝かしい幸福だったのか、

日々何も考えていないのか、お互いに関心がないのか、それはわかりません。

ただ、毎回こんな感じの話のマンネリ展開になるのが予想されてしまうと、

「帰省するモチベーション」とか、「昔の仲間に会うモチベーション」がなくなっていくのではないかというのが怖くて仕方ないのです。。。

 

というのが、私が帰省中に感じたコト。

テーマは、成熟した旧友との付き合い方、です。

 

 

で、なんとなく昨日の会話の中で、いくつか理由についての考察を行ってみたわけです。

一番強いのは、“自分が彼らを、どこかすれた目で見ているのではないか”ということ。

だからこそ掘り下げた話を仕掛けられないのではないか。

 

このあたりからは、おそらく賛否両論な展開になります。笑

旧友たちの9割以上は地元の中学高校を出た後も、地元に進学して、地元市内で就職。

(ここからは勝手なイメージ)

きっと就職後も仕事へのモチベーションはまさに「金稼ぎ」で、“どうして働くのか?”と問われれば、迷わず“余暇のため”と答えそう。

仕事中は“自分”を殺して定時を待ち、定時とともに会社の外で“自分”を解放する。

“社畜”、とか自称してみたり。

地方だと、人生のモチベーションがそっちのほうになりがちなんじゃないかという、東京在住者としての(あまりに傲慢な)ステレオタイプがあるのです。

 

これって、小学校までの“ただひたすら休日を楽しみに生きてた生活”と変わらないんじゃないかと感じてしまった。

“勉強に対する、内発的なモチベーションのなかった”あの時代。

 移動に自動車が使えるようになったり、娯楽の中にアルコールとかが入ってきた程度の小さな変化はあれど、本質的には変わってない。

 

 

かたや私は都市づくりという業界に心奪われていて、

就職後もひたすら経験と勉強を積んで、

自分の理想とする都市づくり・まちづくりを常に考え続けて、

そしてそれが実現できる立場になりたい。

 

これをけっこう本気で妄想しているわけです(恥

すると、就職後の余暇も余暇として楽しめる自信はなくて、読書とか勉強に没頭していそうな自分が用意に想像できる。笑

 

 

私が長く学生やってたせいで、こんな理想主義的な思想になってしまったのでしょうか。

理念持って仕事に取り組むとか、人生を通じた自己実現だとか、そんな言葉は働き始めたらしがらみの中に消えていってしまうものなんでしょうか。

来年の今頃自分がどんなこと思っているか不安ではありますが…

 

 

こんな“勝手なあきらめ”、が、自分をすれた態度にさせているわけです。

 

 

でも、こんなことを感じるのも、結局は自分が彼らに踏み込まないからなんじゃないかなーと指摘された。

掘り下げて話してみたら、実は彼らなりの強い考えがあった、なんていう展開は大いにありそう。

知らずに彼らを批判する資格なんてないし、生きる美学みたいなものを強要することだってダメですよね。

 

「意外と掘ってみたら、面白いこと考えているかもよ」と、

そんな風に、昨日飲んだ友人には言われた記憶があります。笑

 

結論としては、次に旧友たちに会う時は、ちょっと掘り下げた話ができるように頑張ってみたいな、ということです。

思い切った“最近どーなのよ?”の言葉には、わりと強いチカラがある気がします。笑